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絵画修復事例013.
パブロ・ピカソ作 リトグラフ版画 
─変色した画用紙の漂白─

◉資料の内容
制 作:パブロ・ピカソ
組成構造:紙、インク / リトグラフ版画
年 式:1961年7月25日制作(画用紙右下サインしたに記載)
作品寸法: H644~646 x W494~496mm(画用紙の寸法) 
額 寸 法 H760 x W610 x T18mm

修復後作品寸法:H644~646 x W494~496mm(画用紙の寸法)
額は再利用(ガラス設置位置および裏板を変更)

 

◉作品の特徴と修復前の状況
本作品は平版、リトグラフ技法によるものと思われる版画作品で、製版時に油性のクレヨンなど用いたと思 われる特徴的な筆致が見られる。支持体(画用紙)は表面に凹凸のあるもの。ウォーターマーク(透かし) は確認できなかった。支持体は額に装着されていたガラスとおよそ同じ大きさに裁断されていたが、左辺に は紙の生産時にできる『耳』がわずかに残っており、ほか三辺は不用意に裁断したか、直線となっていなかっ た。
本作品は1971年製、YATAYA製の額装(木製額縁、合成樹脂塗装)が施されていた。この額はマットなど 作品の周囲に装幀のない、いわゆる直縁(じかぶち)の形態となっていた。作品の前にはガラス板、額の最 背面にはベニヤ板製の保護板が装着されていた。裏板は細い釘で額縁に固定し、さらにその上から化粧紙を 貼って額縁の裏面と裏保護板の外周を一緒に覆う様にしていた。 この額装は特異な装幀方法をとっており、作品(画用紙)を画面をガラスに密着させたのち、周囲に接着 テープを貼り、双方を挟み合わせるように固定して額縁に収めてあった。作品直下、画用紙の背面には段 ボール紙(片面のみに薄手の板紙、片面は波板状の紙が露出した梱包材=巻いた状態で販売されているので 巻き段ボールなと呼ばれている)が設置されていた。
作品は褐色化が顕著であり、製作後およそ60年を経ていることを考えても、光による影響に加えて、画用紙 の酸性劣化も進んでいる様子であり(pH4~4.5の酸性となっていた)、額を解体してみると、作品画用 紙の背面に直接当てられていた段ボール紙からも汚染物質が転移した模様で、画用紙の裏面は段ボール紙の 跡が縞模様になって反映、変色していた。
作品とガラスを挟み合わせていた接着テープを取り除くと、テープに覆われていた画用紙部分は比較的変色 が少なかったことから、現状に至った原因として、とくに光による影響は大きかったものと思われる。 本作品は幸いにもガラスとの接着もなく、描画上に顕著な絵の具の欠損などは認められなかったが、作品を 分離したガラス板の内側には、描画の跡がうっすらと写っており、結露痕と思しき斑点状の変色も認めら れ、症状は軽微であったが、画用紙の外周、先端部には黴痕と思しき変色も認められた。

紙の変色を促進させる成分としてリグニンという物質がある。リグニンは木の繊維、セルロース同士を結合させ、大きな樹木を成り立たせるのに必要不可欠な物質であるが、太陽光が当たると黄変する性質がある。新聞紙のような機械パルプで作られるものにはリグニンが大量に含まれており、経年による変色も顕著となる。この光による化学変化は、いったん光を当ててしまうと、照らすことを止めても、あるいは暗い場所に移しても、その変化は続くといわれており、不可逆的な被害をもたらす。 これに加えて、画用紙やコピー用紙、新聞紙など、洋紙と呼ばれる紙の多くには、作られる過程でインクなどの滲みどめ剤として、硫酸アルミニウム(硫酸バンド)が混入されており、これが経年により分解して硫酸を生成し、紙中の水素分子(紙は紙繊維間の弱い水素結合から成り立っている)を水の形で奪い、その結果として紙繊維の結合が脆弱化する。


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作品受け入れ直後の様子。額装幀されて状態。額縁にも変色の傾向が認められ、裏面は化粧紙の退色、変色が目立っていた。

 

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画用紙の全面にはガラスを密着させて周囲を接着テープで固定してあった。作品には大きな損傷は観られなかったが、ガラスには描画部の絵の具成分が転移癒着した模様。作品画用紙の背面には段ボール紙が当てられ画用紙には縞状の痕が観られた。

 

◉修復処置の概要
修復処置前の状態をデジタルカメラで撮影記録し、額裏板を取り外し、ガラスに固定されていた作品を取り 外した。

作品とガラスを合わせて固定してあった接着テープを側面より刃物を利用して削り取り、慎重にガラスから 作品を分離し、画用紙表面の状態、絵の具の定着状態などを観察、調査した。わずかながらではあるが、画 用紙の表面は肌荒れしている印象であった。

作品画用紙の裏面に残った接着テープについては、硬化が著しく、以後の処置、額装の妨げになるととも に、残存させることにより、作品に悪影響を及ぼすものと判断して、全て取り除くことにした。このテープは水分の浸透性が鈍く、テープの接着剤も緩まなかった。さらに不用意に水分を与えることで、 作品画用紙汚染させる(輪ジミが生じる)可能性が大きかったことから、エタノールを加えた純水でわず かに湿らせた状態にし、その後ピンセットなど用いて少しずつ、慎重に取り除いた。

洗浄前の清掃として、作品の表裏をケミカルスポンジを使って払拭清掃した。とくに段ボールに接触していた部分にはわずかに汚れの付着が認められた(劣化して崩れた段ボールの繊維が付着したか)。

第一次洗浄処置として、溶剤テストの上、純水とエタノールの混合液で画用紙を十分に濡らし、その後直ちに、あらかじめ調整しておいたアルカリ水溶液(水酸化カルシウム使用)を加えてpH9程度に調整した純 水に浮かべる様に漬けた。この後20分ほどして、いったん作品を洗浄槽から引き上げ、水溶性の汚染物質が 溶け出して褐色となった洗浄液を新しいものと取り替え、再び作品を洗浄槽に浮かべること20分程度、同じ 作業を全3回おこなって、およそ汚れの流出が見られなくなったところで作品を洗浄槽より引き上げ、サク ションテーブル(テーブル状の吸引装置)で脱水したのち、1日ほど自然乾燥させた。

第二次洗浄処置として、先の水洗にて反応しなかった全体の変色と、段ボール痕を取り除くため、酸化型漂白剤(次亜塩素酸カルシウム)を使った処置をおこおなった。 漂泊液に作品を浮かべ、漂泊液の十分な反応を待って作品を洗浄槽より引き上げ、すすぎ洗いと脱水をおこない、酢酸水溶液による漂泊反応停止処置の後、さらに十分なすすぎ洗いを行なって脱水し、最終処置として水酸化カルシウム水溶液にメチルセルロースを加えた水溶液に20分程度浸漬させた。

以上の処置後、サクションテーブルを使って脱水の上、吸い取り紙に挟んで加圧して一昼夜置いた。

前処置の翌日、吸い取り紙を新しいものに交換し、再び加圧して乾燥作業を続け、この後さらに2回ほど 吸い取り紙を交換しながら、およそ2週間あまり加圧乾燥を続けた。


 
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左画像処置前、右画像処置後の様子。

 

◉再額装
所有者の希望により、額はこれまで利用してきたYATAYA製のものを再利用し、相談の上、作品のセット方法のみ、以前よりも良好な状態にできるよう工夫し、施工した。

額は一旦部品ごとに全て解体し、清掃、エタノールによる消毒をおこなった。

旧額装では作品画用紙にガラスを密着させてあり、作品にとって非常に危険な状態であったため、再額装にあたっては、これまでガラスの前に設置されていた細い縁(報告者は本来はガラス押さえとなるものであったと考える)をガラスの内側、ガラスと作品の間に移設し、わずかながらではあるが、作品画面とガラスの内側との間に空間を設けるようにした。 なお、作品とガラスの大きさはほぼ等しいことから、ガラス押さえとなるこの細い縁は直接作品画用紙周囲に接触することとなるため、簡易ながら最低限の保護策として、作品画用紙に接触する面には中性の紙テープを貼ってバリアーとした。

作品はガラスの大きさとほぼ同じであるため、作品を額内部で固定する方法には限りがあったこと(旧額装でガラスに作品画用紙を固定していた理由の一つであろうと思われる)に加えて、作品は一般の家庭で鑑賞利用することから、不安定な温度、湿度環境においても、できるだけ作品画用紙が額内部で平滑な状態を保てるようにするため、作品の周囲に帯状に裁断した和紙を貼り付け、これを介して背面に当てたバックボード(中性厚紙)に固定して額に収めた。作品周囲に接着した和紙は、画用紙に比べて薄いものではあるが、湿度の変化に応じて、画用紙より先に伸縮し、画用紙に適度な緊張を与える役割が期待出来るものと思われる。

作品を固定したバックボード背面にはガス吸収剤を封入し、額裏面の最終保護板として、背面に額装に裏打ちした表装裂地を貼り、内面には厚手の中性紙で被覆した板をステンレス製の木ねじを使って取り付けた。

最終作業として、古い裏板からYATAYA額縁店のシールをベニヤ板ごと切り抜き、ベニヤ板を薄く削って新しい保護 板裏に接着した。以上の額装については費用に限りがあったため、旧額材を可能な限り再利用するとともに、新たに加えた材料、交換した材料については、全て祐松堂工房内にストックしてあった余材などを利用して対応し た。

 

◉記録と材料、装置
修復処置前、処置後の状態をデジタルカメラで撮影した。カメラはCANON EOS D5MarkII (デジタル一 眼レフレックスAF・AEカメラ、撮像画面サイズ35ミリフル画素CMOSセンサー、EF24-105mmF1:4Lレンズ使用)、撮影時の光源はLED照明(相関色温度5000K)を使い、 ホワイトバ ランス調整のうえマニュアルモードで撮影した。 なお、一部作業中の撮影については、CANON eos M5 (デ ジタルミラーレス一眼レフレックスカメラ APS-Cセンサー/レンズEF-M15-45mm)を使用 し、プログラムモードで撮影した。撮影したデータはMacintosh(OS X 10.14.6)を介しjpegフォーマット にてDVD-ROMに記録した。

接着剤の希釈などに使った水には水道水を活性炭、中空糸膜フィルターにて2段階濾過したものを使用。本 紙の洗浄にはイオン交換樹脂フィルターと 活性炭、中空糸膜フィルターを使って純水化したものを使用し た。フィルター、純水精製装置はオルガノ株式会社製を使用した。

内縁裏面(作品と接触する面)に貼った中性の紙テープ : Neschen filmoplastP90 pH7.4 水溶性アクリル接着剤塗
作品固定用に使用した和紙 : 奈良県吉野産手漉き楮和紙 国内産楮、白土、胡粉入りpH8.5
作品背面に設置したバックボード : 特種製紙株式会社製ピュアマットpH7.5
作品固定に利用した接着剤 : 正麩糊【しょうふのり】小麦粉澱粉を煮溶かしたもの。株式会社小川製粉製 特等澱粉使用
ガス吸収剤 : GasQ/ゼオライト入り不織布
裏保護板内側に貼った紙 : 特種製紙株式会社製AFプロテクトpH9.5


【不可逆的な処置】
今回おこなった画用紙の変色、汚損に対する漂白処置、一般にしみぬきなどと呼ばれる鑑賞性の改善処置は、一度進めてしまうと後戻りはできないし、処置後はもとの状態に戻す事ももちろん出来ない。
しみぬきは今日でもよく依頼される処置の一つである。修復を求められる作品の多くは、今回の様に額装にも問題があったり、作品が置かれる環境も安全でない場合があり、症状が軽微であれば、しばらくの経過観察や、環境や装幀の改善を勧め、処置を見送る様に説得をすることもあるが、症状も重く、著しく鑑賞性が阻害され、スムーズな鑑賞がおこなえない状態となっているものについては、所有者にとっても、管理者にとっても看過し難く、鑑賞性の改善への思いも強い。

所有者や管理者の強い要望がある場合、可能な限りは処置をおこなうが、基本的には、修復の理念、哲学として、私たち修復家が守るべきとされている一つである可逆性(簡単に処置した箇所が元に戻せる様にしておく事)を欠いた処置であり、たとえその症状が劣化や変質によるものであったとしても、それが経年により人が老いるのと同じ様に、自然に変化したものであるならば、その歴史的な証として捉える事も出来るため、避けるべきものとする意見もあるだろう。
しみぬき、漂白処置を含む洗浄処置をおこなうにあたっては、たとえ症状が軽微であろうが重症であろうが、十分な検討が必要であり、いつも慎重に作業を進める必要がある。漂白のメカニズムや私たち修復家にとっての倫理や哲学に理解を得る事は困難であっても、顧客への十分な説明も不可欠な、とてもむずかしい処置である。

 

【純水とエタノールによる浸潤】
水はその表面張力の大きさから、密度の高い、厚手の画用紙などには浸透しにくい(画用紙上で水が玉のようになって なかなか浸透しない)。アルコールは表面張力を下げる効果があり、水にもよく溶けることから、アルコールを溶かした水を使うと、厚い紙でも素早く深部まで水分が浸透する。洗浄や漂泊作業の直前にアルコール水溶液で濡らしておけば、もともと水は分子間の引力が強いため、この水が呼び水となり、より効果的な処置ができるようになる。

【水酸化カルシウム】
今回に用いた水酸化カルシウムはアルカリ性剤であり、紙中に生成した酸を中和させる働きがあると共に、紙中に残存させることで、再度の酸性化、酸性化進行を抑制する。水酸化カルシウムの中和作用、酸性化の抑制作用は他のアルカリ剤(マグネシウム、バリウムなど)から比べると弱いとされているが、様々な色材が使われた絵画作品に対しては、 絵の具への変色作用が少ないとされていることから利用している。
紙の漂白に際しては、その紙が酸性化している場合、事前にアルカリ水で洗浄、中和処理しておく事で漂白効率が上がり、より少ない漂白剤、短い反応時間で効果を揚げる事が出来る。

【メチルセルロース 】
メチルセルロース は︎︎︎︎︎︎︎︎紙の原料と同じく、植物の繊維を原料としてセルロースを抽出したのち、アルカリ処置、塩化メチ ルとの反応により製造される。一般に増粘剤として食品の加工や医薬品などにも利用されている比較的に安全性の高いもの。文 化財修復の現場では紙を支持体とする資料や絵画の接着剤、強化、安定化剤として利用されている。今回は劣化した画用紙に含浸させ流ことで、紙繊維間の結合力を高め、強化、安定化させることを目的として使用した。同時に利用した 水酸化カルシウムは、紙が再酸性化することを抑制する効果がある。

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