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絵画修復事例011.
 丸木位里・丸木俊作『おきなわしまのこえ』『ひろしまのピカ』
─汚染した絵本原画のしみぬき─

 

おきなわ 島のこえ 原画
作品No2, 処置前資料寸法H240-241xW247-251mm  修復後資料寸法H242-243xW247-251mm(サンゴ礁)
作品No5, 処置前資料寸法H240-241xW243-245mm  修復後資料寸法H241xW243-245mm(シーサーの家)
作品No9, 処置前資料寸法H157-160xW489-490mm  修復後資料寸法H157-161xW488-490mm(横/戦火)

ひろしまのピカ 原画
作品No24, 処置前資料寸法H241-242xW247-248mm  修復後資料寸法H243-245xW248-249mm(母子像)

原画掲載の絵本
おきなわ 島のこえ 1984年2月25日 第一刷発行 (株)小峰書店
ひろしまのピカ 1980年6月25日 第一刷発行 (株)小峰書店

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修復前の状態 額の内部で作品裏面がベニヤ板に接触しており、ベニヤ板から汚染物質が転移した模様で、画用紙が広範囲に変色していた。 右上の作品(母娘像)は上部にセロテープによる変色が見られた。


資料の特徴・修復前状況
本作品は、株式会社小峰書店より発行されている絵本『おきなわ島のこえ ヌチドゥ タカラ』文・絵/丸木 俊、木位里、『ひろしまのピカ』文・絵/丸木俊 2冊の原画。いずれの絵本も丸木位里、俊 夫婦の独特な 描画スタイルで第二次世界大戦中の人々の過酷な世界、戦争の悲惨さを伝える作品となっている。
作品は画仙紙と思われる薄手の紙に、墨と顔料を用いた彩色画となっており、描画修正(謝って絵の具を落 とした箇所もある模様)のためか、白い絵の具を使って絵の具を被覆している箇所が認められた。
作品には裏打ちが一層施されていたが、丸木俊の姪である丸木ひさ子氏によると、丸木夫妻自身で裏打ちし た模様。この旧裏打ち紙を作品画用紙から取り除いて観察をすると、旧裏打ち紙は比較的太い繊維から成り、画用紙よりもやや厚手であり、簾の目も糸目が見られないことから、機械漉きの紙とおもわれる。なお、 この裏打ち紙はpH4~5程度の酸性を示した。

旧裏打ち紙は作品の寸法よりも少し大きくして外周に残されており、ここには接着剤付きの紙テープ、セロ テープなどが付着し、同部分にはテープの接着剤が裏打ち紙に含浸して褐色化していた。加えて、旧裏打ち紙 にはわずかながら赤など一部の絵の具が移動、吸収されていた。

作品は木製の額縁にアクリルガラス、ペーパーマット、ベニヤ板製の裏面保護板が装着された額に装丁さ れ、作品本紙は作品の有効画面よりも少し小さく窓抜きした厚紙製のウィンドウマットにマットに、裏面よ り接着テープ(市販されているドラフティングテープやセロテープ)を使って固定されていた。 マットの裏面、作品の裏面周囲(作品外周に残した裏打ち紙)には切り取られた接着テープの残骸が残って おり、四隅には何層か接着テープが貼り重ねられていたことから、幾度かにわたって作品を取り外し,固定し直したものと思われる。安易な作品の固定方法に加え、繰り返しおこなった固定直しによるものか、本紙には軽微な折れや 皺に加えて、不規則な波打ちも認められた。いずれの作品も、画用紙の余白部には顕著な変色、褐色化が認められ、広島24作品には、画用紙の中央あた り、余白部分に褐色化した接着テープの痕(テープはなかった)が2箇所認められた。

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額は作品の背面にベニヤ板を当てて押さえるるような形となっており、ベニヤ板と作品本紙との間には、中厚手の洋紙 が一枚挿入されていたが、この厚紙には不規則な波打ちが認められ、作品から比べると軽症ではあったもの の、マットの裏面にも変色傾向を認めたり、斑点状の変色(褐色化)がマット用紙裏面全体に発生している ものがあった。いずれのマット用紙もpH4~5の酸性を示した。

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修復処置概要
作品をマットより分離し、事前処置としてケミカルスポンジを使って表裏を丁寧に払拭清掃し、作品本紙に はカビなどによる被害も窺われたため、80パーセント程度に調整したエタノールをスプレーして簡易ながら 消毒処置とした。

作品を湿らせた吸いとり紙に挟んでしばらく置き、古い糊が緩むのを待って旧裏打ち紙を取り除いた。この 裏打ち紙は作品画用紙よりもやや厚手で、裏打ちの接着も比較的強い(高濃度で使用したか)ためか水分の 浸透性が鈍く、水分のみでは古い糊がなかなか膨潤しない様な箇所もあったため、同様の箇所についてはさ らにエタノール水溶液を裏面よりスプレーして、改めて紙の芯部、裏打ち紙と作品画用紙との境界まで水分 を行き渡らせ、ピンセットなど使って裏打ちの紙繊維を少しづつ取り除くようにして、旧裏打ち紙を全て取 り除いた(水にエタノールを混合すると水の表面張力が小さくなり、紙への吸収がより良好となる)。

とくに褐色化が顕著であった箇所については、作品画用紙、裏打ち紙ともに劣化して脆くなっていため、拡 大鏡、または実体顕微鏡下で先のごく細い精密なピンセットなど使って、裏打ち紙の繊維を可能な限り取り 除いた。

描画部に精製水を加えて3パーセント程度に調整した膠水を塗布、含浸させて描画部分の安定化処置とし た。裏打ち紙に絵の具が浸透していた箇所については、描画部の裏面からも膠水を塗布した。

画面の中央あたりにテープ痕が見られた作品(ひろしまのピカに掲載されていた作品No,24)については、 有機溶剤を含ませたタルクにて変色部分を湿布をし、変質した接着剤成分を除去した。

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先に塗布した膠の安定を待って、サクションテーブル上で吸引をしながら作品に純水をスプレーし、第一次 洗浄処置とし、水溶性汚染物質の除去処置とした。

第一次洗浄後は作品を一旦乾かして後、純水を加えて希釈、さらにアンモニア水溶液をわずかに加えてpH調整し た過酸化水素水を褐色化した部分の表裏より塗布し、反応を待つことを数回繰り返し、およそ画用紙の白色 性、鑑賞性が回復したところで再びサクションテーブル上で処置部を水洗、すすぎ洗いを行なった。

傷んだ画用紙繊維の安定化処置として、純水で溶解、希釈したメチルセルロースを含浸させた。

以後の取り扱いを考慮して裏打ちを行なった。裏打ちは2層施し、第1層はごく薄い美濃紙を使用。第2層目 は白土入りの美須紙を使用した。接着剤は自家炊きした正麩糊に精製水を加えて調整したものを使用した。 第一掃裏打ち後は一旦自然に乾燥(カーペット上で敷き干し)させ、第二層裏打ち後は伸展処置を兼ねて仮 張りに張り込んで乾燥させた。
 第一層(肌裏打紙)岐阜県美濃市産手漉き和紙 美濃紙 那須楮+岐阜楮各50% とろろ葵 ソーダ灰煮熟 手打叩解 竹簀流漉 天日干し pH6(±5)
 第二層(増裏打紙) 奈良県吉野産手漉き和紙 美須紙 高知産楮 糊空木 ソーダ灰煮熟 手打叩解 竹簀流漉 熱乾燥 胡粉およ び白土入り pH8(±5)

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修復後の様子



記録、装置ほか
修復処置前、処置後の状態をデジタルカメラで撮影した。カメラはCANON EOS D5MarkII (デジタル一 眼レフレックスAF・AEカメラ、撮像画面サイズ35ミリフル画素CMOSセンサー/有効画素数約2110万画 素)、レンズに EF50mm F 1:1.4を使用した。撮影時の光源はLED照明(相関色温度5000K)を使い、 ホワ イトバランス調整のうえマニュアル露出調整、最高画質モードで撮影した。 なお、一部作業中の撮影につ いては、CANON eos M5 (デジタルミラーレス一眼レフレックスカメラ APS-Cセンサー/有効画素数2420 万画素 EF-M15-45mm)を使用し、プログラムモードで撮影した。撮影したデータはMacintosh(OS X 10.14.6)を介しjpegフォーマットにてDVD-ROMに記録した。
洗浄に使用した水は、水道水を中空糸膜フィルター、活性炭フィルター、イオン交換樹脂フィルターを通し て純水化した水を使用した。純水精製装置はオルガノ株式会社製を使用。

裏打、表装時に利用した接着剤は、精製された小麦粉でんぷん(株式会社小川製粉製)に精製水を加えて煮溶かした正麩糊と正麩糊を一定期間保存熟成させた古糊を使用した(祐松堂工房内で調製)。

接着剤の希釈などに使った水は、水道水を活性炭、中空糸膜フィルターにて2段階濾過したものを使用。本 紙の洗浄にはイオン交換樹脂フィルターと 活性炭、中空糸膜フィルターを使って純水化したものを使用し た。フィルターは全て(株)オルガノ社製を使用した。

【丸木位里】
1901年広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区)生まれ。田中頼璋・川端龍子に師事。日本南画院、青龍社に参加し1939年から1946年まで美術文化協会展に出品。1941年、洋画家の赤松俊子(丸木俊)と結婚した。1945年8月広島に原爆が投下されると、疎開先の埼玉県浦和市(当時浦和画家など画家が多く居住していた)を離れ、俊とともに被爆直後の広島に赴き救援活動に従事。この体験をもとに1950年、俊と協働で『原爆の図』を発表するとともに絵本『ピカドン』を刊行し、以後、原爆をテーマとする絵画を描き続けた。1966年、埼玉県東松山市に移住し、翌1967年に自宅近くに原爆の図丸木美術館を設立。1995年には妻の俊とともにノーベル平和賞候補に推薦。翌1996年には朝日賞を受賞。『原爆の図』以外では、『水俣の図』、『南京大虐殺の図』の妻との共作もある。また、位里単独の作品(日本画)では牛をモチーフとした一連の作品が知られている。画家・絵本作家の大道あやは妹にあたる。

【丸木俊】
1912年北海道雨竜郡秩父別町生まれ。旧本名は赤松俊子(あかまつ としこ)。庁立札幌高等女学校、女子美術専門学校卒。二科展に出品、1933年から1937年まで小学校の教員を務める。1941年、丸木位里と結婚。1941年から1946年まで美術文化協会展に出品。浦和画家など多くの画家が住む埼玉県浦和市に疎開していたが、原爆投下後に広島へ赴き、救援活動を行い夫とともにその惨状を目撃し、以後2人で原爆の絵を描き続ける。女流美術家協会、十一会に所属。いわさきちひろを指導、デッサンなどに強い影響を与えた。

以上参考:ウィキペディア

 


 

 

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