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絵画修復事例010.
 吉永叢生 作 『風渡る』
─ベニヤ板に貼られた絵画の修復─

第19回大調和展出展作品NO,141 
紙本彩色画 (紙、天然顔料、膠)   木製パネルに接着固定
処置前作品寸法 高さ910~912 x 幅608~609 x 厚さT28mm
修復後作品寸法 高さ911 x 幅608~609 x 厚さT28mm


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◎作品の特徴
本作品は絵の具に天然顔料、膠を展色剤(接着剤)として加えた絵画作品。絵の具の塗り厚は全体に厚く、顔料自体の固着、絵の具の画用紙への定着力は比較的に良好な様子。画用紙はやや厚手のもので、麻紙と思われる。
この作品(画用紙)は、油彩画用のキャンバス木枠(マルオカ工業製30M)背面にベニヤ板を釘付けして作った手製のパネル(以下パネルと記す)に固定されていた。このパネルには下張りなど基礎工事は一切施されておらず、パネルに固定したベニヤ板面に直接画用紙(裏面全体)が糊付けされていた。 画用紙はパネルの側面を覆うように折り曲げられ、糊付けされていたが、本作品の側面(パネル側面)には絵の具の塗布、描画が見られないことから、画用紙をパネルに接着固定した後に絵画制作が進められたものと推測する。

 

◎損傷状況
本作品は額装幀されない状態で、簡単な包装をして長く保管されていた様子で、包装から露出していた作品 の側面(パネル側面の糊しろ部分)はとくに変色や汚損が目立った。一方の絵画面側は、わずかに塵埃などの付着は認められたが、側面の状態から比べると比較的綺麗な状態であった。

画面上には絵画表層から画用紙に至る深層の大きな亀裂か数カ所にわたっで発生しており、亀裂が生じた付近には画用紙が下層のベニヤ板から剥離し、カールしてテント状に反り返り、大きな裂傷となってベニヤ板が露出している様な箇所も見受けられた。

作品を固定してあったパネルの背面は、木枠の間から作品裏面に接するベニヤ板を観察することが出来る様にになっていたが、この板は経年によるものと思われる褐色化が進んでおり、側面の糊しろ部の画用紙を剥がしてみると、板材接着剤の劣化によるものか,積層間に剥離進行が認められた。

作品からパネル材を取り除くと、画用紙の裏面は接着されていたベニヤ板の色素が転移して褐色化してい た。この変色は一定ではなく、とくに大きな亀裂、裂傷が生じていた箇所の裏面には、変色が軽微であったことから、画用紙の接着が不均一であった模様。

作品画用紙の固定時に、とくに緊張が強いられたと思われる作品周囲(角の部分、側面と画面の境界あたり)には、用紙に微細な亀裂が生じており、この付近にあった絵の具には軽微な剥離、欠失が認められた。

パネルの側面に画用紙が折り曲げられていた糊しろ部分の画用紙には、とくに汚損、変色、劣化、損傷が目立った。この部分は、もとも と用紙がむき出しの状態になっており、今日までに接触することも多かったか、摩滅 して部分的に薄くなったり、欠損している様な箇所も見受けられた。

本作品には厚い絵の具層が形成されており、絵の具の塗り重ねにあたって膠も十分に加えられたか、 絵の具層は現在も比較的に安定している様子ではあったが、制作当初より、描画を進めるに連れて、絵の具を重ねる度に絵画層が*収縮を繰り返した可能性があり、画用紙にも大きな緊張が強いられたのではないかと思われる。 さらに、描画中に画用紙に吸収される絵の具の水分は、画用紙背面に接着されたパネルのベニヤ板にも達した可能性が考えられ、あるいは、この水分により接着剤が溶解し、ベ ニヤ板と画用紙の間に接着不良や糊離れが生じ、後にこの部分に応力が集中したために大きな損傷となった可能性も窺える。

【収縮】
伝統的な東洋絵画の絵の具は、天然の鉱物を粉砕した顔料に煮溶かした膠、水を混ぜたものとなっているが、この絵の具は塗布後、乾燥過程で含まれた水分が蒸発し、この結果収縮し,体積を小さくするする。

 

◎修復作業の方針
本作品所有者が制作者の遺族である事を考慮し、要望のあった損傷部の修復、景観の改善に努めるとともに、現状の形態、形状の維持に出来るだけ努めるものとした。

 

◎修復処置の概要
事前処置として、ケミカルスポンジと刷毛を使い、作品表面に付着していた塵埃などを取り除き、消毒処置としてエタノール水溶液(75% 科学的に殺菌効果が高いとされる数値)をスプレーした。

作品上に亀裂、裂傷が生じていた箇所周辺を湿らせ、柔軟になったところで布海苔とレーヨン混紡紙を表面より糊付け(局所表打ち)、仮固定し た。

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あらかじめ画面を和紙などで養生し、作品裏面よりベニヤ板を取り除いた後、作品画用紙の裏面に固着し、残留していたベニヤ板の繊維をピンセットなど使って出来る限り取り除いた。

先におこなった養生箇所の固化を待って、布海苔とレーヨン紙を使って作品画面全体を表打ち、養生した。 作品の状態を考慮して、同じ作業を2回ほど繰り返し、さらに正麩糊(しょうふのり)と吉野和紙を使って 表打ちをおこない、十分に乾燥させた。

画用紙がパネルの側面に折り込まれ、接着されていた部分を*エタノール水溶液で湿らせ、古い糊が柔らかくなるのを見計らって、画用紙を剥がし た。

損傷部の裏面から修復処置をおこなうため、パネルの背面側より木枠(キャンバス木枠)を取り外した後、作品(画用紙)裏面に接着されていたベニヤ板を各層ごとに少しずつ、木材繊維をむしり取るように剥がしていった。木枠に添付されていた出展票は事前に分離し、清掃、洗浄をおこなって裏打ち補強した。

亀裂が生じていた箇所は、裏面より正麩糊(しょうふのり)と吉野産の和紙を使い、亀裂部分をまたぐ様ににブ リッジを掛け、さらに傷口全体を覆うように局所裏打ち、補強した。

作品の側面にあった画用紙の糊しろ部分については、汚損,損傷が目立ち、絵画領域との境界(パネルの角となっていた部分)に亀裂が認められた(ほとんど分離した様な状態であった)事から、再利用するには強度に欠けるものと判断し、検討の上取り外し、石州紙を作品の周囲に貼り巡らせ、新しく糊しろを作った。

酸性化が認められた画用紙は、裏面側より水酸化カルシウム水溶液をスプレーし、さ らに純水で溶解、希釈したメチルセルロースを裏面全体にスプレー、含浸させ、画用紙の強化処置とした。

画用紙の強化と損傷部の補強のため,美須紙と正麩糊(しょうふのり)を使って裏打ちをおこない、仮張に張り込んで乾燥させた。

【エタノール水溶液】
水はその表面張力(分子間引力)が強いため,厚く、密度の高い様な紙(接着剤などが染み込んだ紙も同じ)にはなかなか浸透しない。水にアルコールなどを加えると、成分が混じり合う事で表面張力が低くなり、水分の吸収が良好になる。エタノールを加える事によって、効率の良い加湿,加水が出来、実際に含浸させる水の量も少なく調整する事が出来る。

 

◎パネルの調整~作品の再固定
パネルの木枠を組み直し、鉋掛け、調整の上、新しく用意した板を接着固定し、パネルを再形成した。この板には絵画層の厚い(質量の大きな)作品を支えるに必要と思われる強度があり、なお経年による変色が 比較的少ないシナベニヤを使用した。

完成したパネルにはバリア層として厚手の中性紙(特殊東海紙商事社製AFプロテクト)を糊付けして張り込み、さ らに石州紙で下張り(受け張り)を2層施し、美須紙によるベタ張り(清貼り)を施した。

先におこなった下張りが十分に乾燥したのを見計らい、正麩糊を使ってパネルに作品を再固定した。

作品をパネルに固定後、十分な乾燥を待って、画面に貼ってあった養生紙を湿らせて取り除き、画面清掃を兼ねて、残留した接着剤と養生紙繊維を暖めた精製水を含ませた綿棒を使っで拭い取った。

絵画層に亀裂が発生していた箇所のうち、絵の具が隆起、カールしている様な部分については、亀裂箇所に調整した膠水を注射器や先の細い筆にて注入、含浸させ、およそ膠が固化した後に、温度調節可能な修復用電気鏝で加温、加圧して、絵の具層の再接着、変形修正とした。

亀裂部の周辺に絵の具が欠損した様な箇所には、アクリル樹脂とメチルセルロース、顔料を練り合わ せたペーストを充填し、充填材の固化の後、周囲の筆致、形状に合わせて整形し、充填したペーストの固化を待って、水彩絵の具(winsor&newton社製)で 補助的な彩色を行った。


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◎材料素材
裏打、パネルの下張り作業に利用した接着剤は、精製された小麦粉でんぷんに精製水を加えて煮溶かした正麩糊を使用した(祐松堂で制作)。

剥離進行していた絵の具の再接着には、国内産黒毛和牛より抽出した膠(雌乾燥皮膠)を調整して用いた。

接着剤の希釈などに使った水は、水道水を活性炭、中空糸膜フィルターにて2段階濾過したものを使用。本紙の清掃(暖めた純水を含ませた綿棒による払拭)にはイオン交換樹脂フィルターと 活性炭、中空糸膜 フィルターを使って純水化したものを使用した。フィルターは全て(株)オルガノ社製を使用した。

作品画用紙の強化のためにおこなった裏打ちには、奈良県吉野産の手漉き和紙(高知産楮、糊空木、ソーダ灰煮熟、手打叩解 、竹簀流漉、熱乾燥、白土入り)を使用した。

パネルの下張りには島根県浜田市産の和紙( 石州産楮100% とろろ葵 ソーダ灰煮熟 ホレダービーター叩解 竹簀流漉 熱乾燥)を使用した。

 

◎修復を終えて
今回、作品は破損した箇所の部分的な処置が困難な状態であり、良好な修復結果を求めた場合は、いったん作品をパネルから分離して、損傷部の表裏からのアプローチが必要になると判断して上記の作業をおこなった。
厚い絵画層を持ち、固く、柔軟性がなく、さらにパネルに直接的に全面接着された様な絵画作品は、絵画層を傷つけないために、作品の裏面からアプローチする必要がある。分離作業にあたっては、最初の障壁となるがパネル周囲に取り付けられた木枠であるが、このパネルの木枠は釘で簡単に固定されていただけであったため、比較的に容易に取り外す事が出来、次いで最も難関であると思われたベニヤ板の取り外し作業についても、劣化,変色が激しく、この板を残す(再利用する)ことこそできなかったが、激しく劣化していたことが有利にもなり、作品の直下まで、大きな力を加えず、作品に対してはより安全にベニヤ板を取り除けたことは幸いだったと思う。

本作品を固定していたパネルは、既成の油彩画のキャンバス木枠の片面にベニヤ板を取り付けたもので、木枠の片面だけ板で覆われている事から、俗に『片パネル』などと呼ばれる形となっていた。これは画家自身が作ったと思われる特殊な物となっており、木枠に固定されていたベニヤ板こそ経年により劣化していたものの、この木枠材は良質なものであり、今日までの長い時間、厚塗りで、かなりの質量(重量)のある絵画を支え続け、絵画の緊張にも耐え、大きくねじれたり、湾曲する様な事もなく,形状を維持していた。この材料の組み合わせは作者の経験により考案されたものであろう。

東洋の書画は西洋の絵画とは異なり、比較的薄い紙や絹織物に描かれる事から、伝統的に掛軸や巻き物の様に、巻いたり広げたりする事の出来る様な装幀方法が利用されてきたが、ライフスタイルも変化し、住まいの様式もすっかりと様変わりした(そもそも床の間のある家が少なくなった)今日では、ごく限られたケースを除いて、ほとんどの絵画は額装幀されるようになり、そんな社会の変化にともなってか、日本絵画の西洋化によるものか、画家が画用紙や画布をパネル貼り付けてから制作をはじめるという方法も、通例となってずいぶん久しいかと思う。
ベニヤ板は薄い板を繊維の方向を変えて(直交する様に)接着、重ね合わせた物。木枠の表裏にこのベニヤ板を接着したパネル(フラッシュとかフラッシュパネルなどと称される場合もある)は、従来から利用されてきた木軸格子に和紙を貼り重ねた*下地(【したじ】伝統工法で制作された襖や屏風の内部と同じ構造)から比べると、表面の硬度も高いため突衝にも強く、薄い物でも適当な強度が得られるため、構造材として建具や家具などにも利用されていおり、絵画を額装する事が多くなった今日では、安価、制作が容易、必要かつ充分な強度が得られる事などから、額の主要な構造材としても多く利用されている。
近年製産されているベニヤ板は、変色し難く、品質の良いものもあるが、ベニヤ板に限らず、木材は経年により変色を来す物が多く、密着している物に(たとえ糊付け、接着していなくても密着していれば)この汚染物質が転移する。とくに接着剤など化学合成物質が添加されるベニヤ板からは、肉眼で確認出来るモノだけでなく、人体にアレルギー症状など引き起こしたり、一部の天然顔料を変色させる可能性のあるアセトアルデヒド、ホルムアルデヒドなど(ガス)も発生する。とくにベニヤ板製パネルを主要構造とした額は、作品の前にガラスをセットすると非常に密閉製が良くなる(通気性は悪くなる)ため、額の狭い空間の中に、有害なガスを閉じ込めてしまうデメリットがあり、さらにこの密閉性が仇となり、展示場所や保管場所の気温変化が大きいと結露も生じやすくなり、結露した水分により黴の発生も危ぶまれる。

画用紙をパネルに固定する際には,用紙を湿らせたり,塗布した糊によって画用紙が湿って伸長した状態で固定する事により,乾燥過程で伸びた画用紙が緊張し,画用紙は綺麗に平滑になるため、描画がしやすくなるメリットが大きいが、描画中に絵の具、膠が加えられるたび、画用紙はその*収縮に応じて動き続ける。さらに絵画の完成後も、気温や湿度の変化によって画用紙は微妙な伸び縮みを繰り返し、画用紙の強度を超えるような緊張が強いられた場合には、画用紙がパネル上で屈曲している角の部分や、絵の具層の薄くなっている余白などに応力が集中して、最悪の場合は裂傷に至る(本作品の損傷原因の主なものと推測する)。
このような緊張による破損を予防するためには、画用紙に裏打ちをおこなって画用紙自体の強度を上げたり、作品を固定するパネルに古来より屏風や障壁画の下処理としておこなってきた様な下張りを施すことが有効になる。画用紙はパネルに固定した後、絵画の完成の後も、気温や湿度の変化によって伸縮を繰り返すが、この下張り層に作品画用紙、画布を固定することによって、伸縮を抑制し、過緊張による裂傷を予防することが出来る。
下張り層はガス類を遮断する事は出来ないが、ガスを吸収する緩衝材として、または画用紙とパネル材の遮断壁としての役割を持たせる事も出来、パネル材から発生する汚染物質の直接的な転移を予防する事も出来る。さらにこの下張り層には空隙(未接着領域)が出来るため、将来、何らかの理由によりパネルから作品の分離が必要となった際には、比較的安全に分離作業をおこなう事が出来るようにもなる。

本作品については所有者が制作者の遺族であることから、作品への強い思いを理解し、要望のあった損傷部の修復、景観の改善に努めるとともに、問題のあったパネルについても、画家自身が制作したものとして、木枠に新しい板を装着して再利用した。しかし、基本的には、絵画作品へのベニヤ板の利用や額装材への利用は避けるべきであり、何らかの理由で、どうしても絵画作品をベニヤ板パネルに固定するのであれば、バリア層の形成や下張りは必要で不可欠なものと理解し、絶対に画用紙や画布の直接的な接着は避けてほしい。

絵画作品が傷んでゆく原因や理由はほかにもたくさんあり、どんなに良い材料にでも耐用年数はあるし、いずれ劣化してゆく。ベニヤ板を使わなければ全て良しというものでもないし、絵画が展示され、保管される環境もまた様々であり、さらに経済的理由による制約はどんな世界でも、いつでも何処でもつきまとうが、そんな多様な条件の中でも、少しでも良いと思われる方法、対処に努めることで、作品はより長く、安全に保たれるだろう。

【下地】(伝統工法による構造材)
絵画を何らかの構造材に固定しなければならない場合、十分な予算さえ得られれば、従来の襖や屏風などの*下地(したじ、『下骨』したぼねなどとも呼ぶ。杉の角材を格子状に組んだもの)に和紙による下張りをおこなったパネルの利用も薦めている。この構造材はベニヤ板を使った物に比べれば強度が落ちるが、アセトアルデヒドなどが発生する心配はないし、軽く仕上がるのもメリット。重く、ハンドリングが困難になるような大きなサイズの作品の構造材として使うのも良い。
伝統的な表装工法によって作られてきた日本の額は、襖や屏風と同じ様に、角材で作った下地に和紙を貼り重ねたものが構造材として使われてきたが、制作に結構な手間ひまが掛かり、良い材料を使うと値段も高額になる事からか、安価で制作も容易なベニヤ板製パネルの利用が盛んになったのであろう。今日では、この従来型の下地、下骨の需要もとても少なくなって、制作出来る技術者も東京都内では数人を数えるほどしかいない。

sitahone/下骨

*伝統工法によって制作される襖や屏風,額は、杉の白太材(アクの少ない原木、丸太の外側あたりの材料)を使って格子状の骨組みを作り、この上に特殊な方法で和紙を貼り重ねた物を構造材(書画を支える下地材)として利用する


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